横山芳夫先生
追悼号

武蔵野東学園広報 横山芳夫先生追悼号 【オンライン版
平成18年(2006年)12月27日発行

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  横山先生のご生涯について    事務長  鈴木克己

目  次

 P.2 お別れの言葉
理事長 寺田欣司
 P.3 長内博雄 (教職員代表)
ピーターガーランド
(ボストン東スクール理事長))
 P.4  学園主催本葬儀
(11月23日) 
横山芳夫先生 ご経歴

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故 横山芳夫先生

 横山芳夫先生は、昭和18年4月21日、長野県上伊那郡箕輪町に横山家の5人兄弟の次男としてお生まれになりました。地元の小学校、中学校を経て、長野県立伊那北高等学校に進まれ、昭和37年3月に卒業されました。高校卒業後は、島屋商事、その後太平生物化学工業株式会社(現株式会社サンクロン)に勤務されました。
 この間に、奥様の和代様とめぐり会われました。和代様は武蔵野東幼稚園の事務に携わられ、お姉様であり本学園の創立者である北原キヨ先生の幼稚園運営を支えておられました。折しも、学園は武蔵野東小学校設立に向けて教職員、保護者が一丸となって取り組んでいた時期であり、横山先生の実務・交渉能力を高く評価されていたキヨ先生の起っての要請に応えて、昭和51年4月、先生は法人事務長として学園の運営に参加され山積する課題に取り組まれたのでした。同時に東京経済大学に学ばれ経営と法律を修められました。
 以来、昭和52年の小学校設立と校舎の建設を皮切りに、中学校の認可設立(昭和58年)、高等専修学校の認可設立(昭和61年)、米国ボストン東スクールの開校(昭和62年)と常に学園の歩みの中心におられ、その運営面・財務面の責任者として腐心されました。
 平成元年北原キヨ先生のご逝去、平成7年勝平先生のご逝去と、創立者を失う最も悲しい出来事を経ても本学園が何ら揺るぐことなく創立者の夢と精神を継承してさらに力強く歩みを進めることができましたのは、先生の存在なくしてはあり得ないことでした。しかも、先生は常に周りを引き立てられ、決してご自身が表立つことは選ばれませんでした。学園にとって、真の陰の功労者でありました。
 平成16年3月、横山先生の長年の地道な活動が実を結び、文部科学省、国立特殊教育総合研究所、関東財務局との話し合いのもとに、昭和51年以来無償で国よりお借りしてきた小学校用地とその隣地の払い受けが決まりました。その上に今日建つ「北原記念館」は、中学校新体育館とともに次代の学園の飛躍にむけた夢とメッセージが盛り込まれた横山先生のご遺志の結晶であります。
 平成16年4月に学園の常務理事に就任された先生は、その年いっぱいをかけて新館建設のための諸準備を整えられました。この間、糖尿の治療中にガンが発見され、明けて平成17年4月に築地の国立がんセンターにて手術を受けられました。病床にあっても日を空けることなく電話を通じて工事の進捗状況や学園の運営状況を確認されました。同年7月、退院。手首にお数珠をされ、そして富士山の水や活性水素の水を常に傍らに置かれて、新館建設と竣工記念祝賀会の準備に専心されました。今年2月27日の祝賀会当日、壇上の先生はとても晴れ晴れとした表情で常務理事としてご挨拶をされました。
 それから約3ヵ月後の6月、再び入院されました。8月下旬に一度退院されましたが、9月に3度目の入院。そして10月17日午前11時26分、入院先で静かに息を引き取られました。享年63歳。
 先生にはお好きな言葉がありました。「花には水を、人には心を。」学園に学ぶ園児児童生徒そして勤務する教職員に注いでくださった先生の温かく優しさに満ちた眼差しが思い出されます。最期に先生が発せられた言葉は「学園のビデオはもうとめていいよ。」であった由、奥様からお聞きしました。逝かれるその時まで先生は瞼に学園のことを想い描いておられたのです。
                               事務長 
鈴木克己


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