武蔵野東学園広報 横山芳夫先生追悼号 【オンライン版】    平成18年(2006年)12月27日発行

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お別れの言葉

           理事長 寺田欣司

  謹んで、故横山芳夫先生の御霊に、お別れの言葉を申し述べます。
横山さんに最初にお会いしたのは、二十年も前のことになります。縁あって娘二人が武蔵野東学園に学び、それを契機として、亡くなられる先月までの二十年間、長いお付き合いが続きました。
 横山さん、昔は二人だけでよく飲みに行きましたね。二人で話すことといえばいつも学園経営のことでした。そしてキヨ先生が亡くなられてからは、会うたびに私に学園の役員になってほしいといわれました。私は、役員にならなくても外野席から応援できる。サラリーマンを卒業したら、学園の小使いさんに雇ってもらうから、と笑って応じたものでした。
 そんなやり取りがあってから数年後、横山さんのたっての要請を受け、私は学園の監事に、そしてサラリーマンをやめた三年半前には、理事長就任の以来を受けました。私は横山さんの口から出た「小使いさんではなく理事長に」の言葉に驚きましたが、日々の学園経営のことは私が責任を持つから、という横山さんの言葉で、私の役割は横山さんのアドバイザーだと納得し、申し出をお受けしました。私とあなたとは理事長と事務長の関係ではなく、長いお付き合いを通じて信頼しあい、助け合い、何でも本音で話せる友の関係でした。
 あなたは学園創立者北原勝平、キヨ先生のご存命中は、学園経営の縁の下の力持ちとして、そしてお二人が亡くなられた後は、自らは決して表面に立とうとしませんでしたが、実質的な武蔵野東学園の経営責任者として、学園経営に当たってこられました。私はこの二十年間、あなたが如何に学園に尽くされてこられたか、この目でしっかり見続けてきました。
 何をさておき学園のことを最優先に考え、他人に対して暖かく学園を育て上げた立派な経営者であるのみならず、学園関係者からも周囲のみんなからも、こよなく愛された人格者でもありました。
 この三年半、二人でやってきたこと、それは国有地の買い取り交渉であり、北原記念館、北原記念体育館の建設であり、幼稚園のリニューアルでした。二十年がかりの仕事を、一挙に仕上げてしまったね、と話し合ったものでした。
 これらの計画のすべてに目途がついたとき、あなたと私は約束しました。これで武蔵野東学園のさらなる発展への基礎は固まった。これからは後進を育て、70歳になったら一緒に学園を去ろうと。しかし、あなたはその約束を破り、私を置いて別の世界に行ってしまいました。私の心に残ったものは、友を失った悲しさだけではありません。悔しさです。
 あなたの死から一月以上、私は考え続けました。私の仕事はあなたを助けることだった、だからあなたがいなくなれば私の仕事はなくなる。明日にでも理事長職を辞そうと。しかし、それは横山さんが私に望んでいることだろうか。私は思い直して今日この壇上に立ちました。そして今は明日の武蔵野東学園のことを考えています。
 十月の初旬のこと、奥野先生が主宰するアジア教育福祉財団から学園に対する寄付の礼状が届きました。学園の名前での寄付であれば、あなたは私に事前に話をするはずです。事務局の誰に聞いても心当たりがないといいます。事情不明のままその礼状は、私の机の上に一月以上置かれたままでした。
 そして先週、関係する人たちの話をつなぎ合わせることで、やっと事態が判明しました。あなたは学園から渡されたお金を病院のベットの上で受け取ったあと、ただ一人病院を抜け出して財団を訪れ、そのお金を財団に対する学園名での寄付とされたのです。私はこれを知って思わず絶句しました。死の直前まで、これほどまでに無私の姿勢を貫ける人は、この世に何人いるのだろうか。私はこのアジア財団から戴いたこの寄付のお礼状を、あなたの貴重な思い出の品として学園の資料室に永遠に保管しようと思います。
 ガンとの長い闘病生活を続けられたのに、あなたのあの死に顔はどうでしょう。病院のベッドで拝見した臨終ほどなくのあなたのお顔は、疲れたからちょっと一眠りするよ、とでも言っているような穏やかさでした。
 あなたの生き様に感じた神が、あなたに休息の機会を与えた。それが10月17日午前11時26分の出来事だった、と私は思っています。
 今、会場には学園歌が流れています。横山先生が生前いつも大きな声で歌われた、あの歌です。学園歌を子守唄に、横山さんどうか安らかにお休みください。                                                                                                          次のページへ