武蔵野東学園広報 横山芳夫先生追悼号 【オンライン版】    平成18年(2006年)12月27日発行

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お別れの言葉

               教職員代表  長内 博雄

  横山先生は、私が武蔵野東幼稚園に勤務を始めて3年目、小学校設立の前の年に、事務長として学園に勤務されました。我々現場の教育をしている者たちの目にも、それからの横山先生のお仕事は、まさに何人分にも相当するものに映りました。小学校開校式当日、常陸宮両殿下のご臨席に際し、ご案内や校庭でのお見送りの先導に立たれていた先生の晴れやかなお顔を思い出します。
 横山先生の温かなお人柄はよく知られるところですが、私ども教職員一人ひとりについてもよくご存知で、新任の先生にも気さくに声をかけておられました。家庭のこと、郷里のことなど気軽に雑談を交わしてくださる横山先生はありがたく、誰もが親しみを感じていたものです。気取らないお人柄で一人ひとりのことを気にかけてくださる横山先生ですから、教職員にとってもいろいろと相談を持ちかけたり、また冗談を交し合えたりする身近な存在でもありました。先生は、他人のために労を惜しむことのない構えない愛の実践を、自然体で私どもに示してくださったように思います。
 このように誰をも温かく朗らかに受け入れてくださる人柄は、教職員に限らず学園の保護者の方々、役員の方々にも愛され、卒業されてから年数の経っている後援会OB会の皆様方なども、いつまでも慕い、頼りにしてくださっている様子を目にしております。
 北原キヨ先生は『教育と事務は学園運営の両輪』と常々言っておりましたが、横山先生はまさに、急成長の速さをともなって拡大を続けた学園を支える原動力として、学園発展の礎となってくださいました。そしてまた次々と建ちあがった園舎・校舎が年月を経てもきれいに保たれるように目を配ってくださったのも横山先生で、補修管理のみならず日々の掃除の大切さを私どもに諭してくださっていたことは、思えば創立者の心と一つでありました。
 最後に、これまで学園を創り支えてこられた横山先生の大きなお働きに、教職員を代表してことばに尽せない感謝を申し上げ、その温かい真心を今後とも学園の中にしっかりと醸成していくことを忘れずに、これからの学園を創っていく決意を申し上げ、お別れの言葉といたします。
 横山先生、先生の姿が学園の中で見られないということが未だに信じられない思いです。どうぞこれからも、あの楽しげなにこやかなまなざしで、私どもを見守ってください。

お別れの言葉

        ボストン東スクール理事長 ピーターガーランド

  私たちは今日ここに集い、ご主人の、お父様の、そして友人の死を心から悼むとともに、彼との素晴らしい思い出をふり返る機会が与えられました。
 私が最初に横山先生とお会いしたのは1990年、学園の盆踊りの時でした。先生からプレゼントされた“関取サイズ”の浴衣を見ながらお互いに大笑いしたことを思い出します。
 その5年後のこと、親友のドクター・キーフと私が先生からプレゼントされたきれいな柄の和紙を何かの作品だと思い高いお金を出し合って額装したのですが、後で先生からそれが普通の包み紙であることを知らされて皆で大笑いしたことが懐かしく思い出されます。
 私の母が他界した時には、温かい言葉を寄せてくださいました。私の孫が日本で過ごした時には、特別な多色ボールペンを優しい笑顔とともにプレゼントしてくださいました。
 武蔵野東学園における先生のプロの仕事振りはいつもボストンの人々の賞賛の的でした。微笑(ほほえみ)と優しい手ほどきは私たちにとり見習うべきお手本でした。
 先生が毎年2月に招いてくださる夕食会で、今年は私の娘たちが幸いにもお会いする機会を得ました。活きのいい伊勢海老の刺身に箸を使ってはしゃいで立ち向かう彼女たちの姿に、先生がなげかけておられた優しいまなざしが忘れられません。
 ある時には、野田先生が横山先生と私を地球のあちら側とこちら側の兄弟のようだとおっしゃられたことがありました。もちろん年齢では横山先生が弟になるわけですが、先生は私が「勇気」と「献身」を考える際の人生の目標でした。
 先生の最期の言葉が「もう学園のビデオはとめていいよ。」であった由、特別の感慨を覚えます。
 本日私たちは先生のご逝去を心より悼むとともに、ご主人としての、お父様としての、そして友人としての先生の思い出を永遠に胸に刻むのです。
 わが友芳夫さん、再びお会いするその日まで、神のご加護のもと安らかにお休みください。

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