* 寺山先生は、永年の教育実践ののち、国立特殊教育総合研究所分室長、目白大学教授などを歴任されました。
豊富な経験をもとに武蔵野東学園のアドバイザリーボードとして様々なご助言をいただいています。
(第18号)平成23年12月3日発行
それは英ちゃんが3歳のとき、当時、私が勤務していた研究所にお母さんと相談にみえたことがきっかけでした。いつもかわいい洋服を着て、親子で訪ねてこられ、ままごと遊びなどを一緒に楽しんでいました。
あるとき、自宅での様子をみて欲しいと頼まれ、訪問させていただきました。あれこれ家庭での過ごし方を話しているうちに、突然、お母さんから、「お父さんが亡くなったら、どうしたらよいのか」という質問を受けました。若いお母さんだったので、心配なのだなと思い、「これからは福祉も充実していくと思うので、今から心配しなくても大丈夫」と答えた記憶があります。この質問は、それから何回もされたので、印象深く心に残っていました。
その後、幼稚園、小学校へと進み、直接お会いできなくなりましたが、必ず英ちゃんの成長を知らせてくれました。そのたびに、一緒に喜び、返事を書いたことを憶えています。
ある年、年賀状がこないので、こちらからその後の様子を尋ねました。ところがお父さんから、お母さんが亡くなったという手紙をいただき、あわててお線香をあげに伺いました。英ちゃんは、お母さんの写真やビデオを繰り返し繰り返し見せてくれました。彼なりにお母さんが亡くなったことを理解しているのだろうかと切なくなりました。お父さんから、お母さんの最後のことばが、「えいいち」であり、最後まで子供のことが心配だったのではないかと聞かされました。
その後、英ちゃんは成人し、施設からグループホームに移り、土日には自宅に戻ってきているという報告を受けています。お父さんから英ちゃんの成長した写真が送られてくるたびに、お母さんのあのことばが思い出されてきます。
(第19号)平成24年3月3日発行
良ちゃんとの出会いは、私の勤めていた小学校に母子が訪れてきた時でした。お母さんに手を引かれた彼は飛び跳ねながら、一方のお母さんはしょんぼりとして、校門に向かって帰ろうとしていました。その姿がさびしそうに見え、声をかけたのがきっかけでした。
この母子は、特殊学級(現、特別支援学級)に入学したいと訪ねてきて、学校側から断られて帰るところでした。何とか入学させてあげたいと校長先生にお願いしたことを憶えています。
結果、いろいろありましたが入学となり、4月に入学してきました。まだ自閉症という障害についてよく知られていない頃なので、何とかしたいという情熱だけで担当したのでした。入学後は、彼が学校にきてから帰るまで、一時も目が離せない状況になりました。当時は、自閉症の原因は親の育て方といわれていましたので、何回もお母さんと話し合いました。話し合っているうちに、どうもお母さんのせいではないと確信し始めました。
まず、お母さんの「自分の名前くらいは書けるようにしたい」という願いを取り入れて、椅子に座らせるやいなや、さっと立ち上がり、あっという間に外に出ていきました。その度に手を引っぱると噛みつかれ、手や腕、胸まで青あざになってしまいました。
この時、良ちゃんの指導をどうすべきか、ずいぶん悩みました。ただ、経験的に無理に何かをさせようとせず、彼の好きなことに取り組ませるようにしました。彼の絵はいつも同じ形で、あっという間に1冊の画用紙を使ってしまいました。重い電話帳のページをぱらぱらとめくり、いつまでも続けていました。このような状況が続くので、何とかしなくてはと、あせりを覚えました。そこで、ある医師をたずねることにしました。 (3話につづく)
(第20号)平成24年7月2日発行
一人の自閉症児の指導をどうしたらよいのか悩んでいたとき、三越診療所の広告が目に止まりました。早速、その診療所を訪ね、そこで一人の医師と出会いました。私が必死に自閉症児のことを話すので、きっとあきれられたことでしょう。とても余裕がありませんでした。どう関わったらよいのかをお聞きしました。先生からは、「自閉症といっているが、話から考えられるのは、かなり精神発達に遅れのあるお子さんなので、そのことを考えると、日常生活の指導が大切になるのでは」といわれ、とても驚きました。当時の私は自閉症児の利発な容貌から、知的には問題はないと信じていたからです。
小林先生からは、『自閉性精神薄弱児の家庭指導』の本をいただいて帰りました。その後、研修会で島田療育園の見学に行きました。島田療育園の園長が小林提樹先生でした。それからは、目からうろこではありませんが、遅れのある自閉症児には、日常生活を中心に指導を展開しました。
ところが、突然、彼が学校をやめることになったのです。あとから分かったのですが、彼は冷蔵庫のアルコールを飲んでしまい、急性アルコール中毒で入院し、そのあと施設に入所したとのことでした。
大きな施設だったので、彼は安心して暮らしているのだろうと想像していました。しばらくしてお母さんから、入所後1か月はほとんど食事をとらないでいたため、入院したという報告を受けました。施設を何度か訪れましたが、彼はいつも外の作業で、会うことができませんでした。お母さんに連絡を取った時には、すでにお母さんは亡くなっており、彼も他の施設に移っていました。彼との出会いが、その後の私の生き方を決めたといっても過言ではありません。今日まで、自閉症の人たちを愛らしく思えることに感謝しています。
(第21号)平成24年12月3日発行
お寺の広い敷地には、社会福祉法人慈光学園があり、慈光良児園、慈光青年寮、慈光ホームなどが点在しています。これらの施設を作ったのは、お寺の了ちゃんのためだったのです。了ちゃんは幼い時の病気が原因で、肢体不自由になり、就学を迎えたときには、どこの学校にも施設にも入れないことが分かりました。お父さんは了ちゃんのために施設を作ることを思い立ったのです。
檀家の方々の反対もあったそうですが、説得して了ちゃんのために施設を作り、同じ悩みの子どもたちを集めて、家庭的な施設を作り上げていったのです。お父さんは、このお寺の住職で、のちに26世管長真言宗豊山派総本山長谷寺第80世化主に就任されていますが、そのことは了ちゃんには関係なく、やさしいお父さんでした。
了ちゃんは、私が訪ねるたびに、大事なおもちゃを自慢そうに見せてくれるのです。そばでお母さんが、いつも見守ってくれていました。
ある時、了ちゃんは立派な懐中時計を見せてくれました。了ちゃんには不釣り合いな立派な時計です。了ちゃんの手の中で、カチカチと時を刻んでいました。この時計は、お父さんが記念にいただいてきたものだそうですが、了ちゃんがお父さんにせがんで、やっとの思いで貰い受けることができたのです。了ちゃんにとって、この時計はとても大切な宝物だったのです。了ちゃんと話すうちに、私はお父さんとも話すようになり、闊達なお父さんの生き方に興味を抱き、対話形式の書籍の編集をさせていただきました。
ある日、突然、了ちゃんの病気が知らされました。そして、了ちゃんは両親を残して旅立ってしまったのです(享年53歳)。お線香をあげに伺ったとき、ご両親はことばもなく、手を合わせておられました。その後、ご両親も他界されました。お寺の庭の藤の花が、在りし日の面影を浮かばせてくれます。