武蔵野東学園広報 野田 彰先生追悼号 【オンライン版】    平成18年(2006年)4月21日発行

 『東だより』トップページへ    学園トップページへ

「父」

           野田 眞 様 (ご遺族を代表して)

 野田 彰の長男です。「東だより」で父の追悼号を出される、そしてその原稿の作成のお話も頂き、本当に有り難い事と感謝しております。拙い文章ですが “息子から見た父” を紹介させて頂きます。
略歴
 大正7年9月2日 和歌山県上富田町(かみとんだちょうー白浜温泉から車で20分)で、佐平・芳恵の長男として誕生、妹悦子、弟悌司の3人兄弟です。和歌山師範学校(現和歌山大学教育学部)卒業後、県内4ヶ所の小学校勤務の後、昭和26年成蹊小学校へ勤務。因みに日置国民学校の時、先生をしていた母恵美子と出会い結婚をしました。子供3人、孫8人、ひ孫5人がいます。
若い頃の父
 父も若い頃は髪が真っ黒で沢山あり、固かったです。(今の父を御存知の皆様には信じられないと思いますが)その頃は当然ドライヤーなどなく、母が編んだ青い毛糸の帽子(ネット)をかぶって寝て、朝熱いタオルで寝癖を直している父をよく見ました。成蹊小学校時代、皆がたばこを吸っているので、母を誘いなぜか夜遅くなってから自宅で2人で喫煙の練習をしたと聞いています。多分30代前半のことで、それから約50年間ヘビースモーカーでとおしました。
いつもの父
 食卓を机替わりにして、周りに資料を積み上げて一晩中仕事をしている、そこでうたた寝という生活で、「教育一筋」そのものでした。
夢を実現させた父
 父の死後、成蹊小学校時代の同僚の方が 「野田先生から “お互いに持っている夢を大事にし、そして必ず実現させよう” とよく僕に言ってくれた。その言葉を大事にしたから、僕も自分の夢を実現することができた、野田先生のお蔭だよ」 と私に話してくれました。父が先生になった時から持ち続けた夢 「障害者と健常者が一つになった場での教育活動」 が、武蔵野東学園にお世話になることで68歳にして実現出来ました。子供として厚く御礼申し上げます。

 3月27日 「父を偲ぶ会」 に母と一緒に出席させて頂き、寺田理事長を始め220人の教職員の方々の暖かい人柄に触れさせていただきました。また1月6・7日の葬儀ではたくさんの父兄・生徒の皆様にお会いできました。父の夢が叶った職場、そして父の最後の職場―武蔵野東学園が素晴らしい学園と強く実感しております。父は幸せな人生を送ったと思います。武蔵野東学園の教職員の皆様、父兄・生徒の皆様、本当に有り難うございました。

野田先生の想い出

         常務理事 横山 芳夫

 野田 彰先生に始めてお会いしたのは、東初協の教員研修会が武蔵野東小学校を会場校として開催された時でした。当時、成蹊小学校に勤務しておられ、東初協の理科部会の神様的な存在でした。 
 そんなことから本学園とのご縁が深まり、副学園長としてご就任いただいたのが、昭和63年4月のことでした。いつも温和なお顔で、園児、児童、生徒に接し、また我々教職員に対しても豊富な教師経験を活かしてご指導下さり、北原キヨ先生亡き後の学園を大きく支えて下さいました。
 学園の後援会OB会の旅行には必ずご参加下さり、愛用のカメラを胸に行く先々の写真を撮られる姿が、今でも目に浮かびます。
 晩秋の信州中央アルプスにロープウェイで昇り、雪景色をバックにご一緒させていただいた写真や伊那谷のりんご園で真っ赤に色づいたりんごの写真などたくさん頂戴いたしました。私は、昨年の4月から病気で3ヶ月近く入院いたしましたが、その入院の間10回も先生がお撮りになられた写真に励ましのお見舞の言葉と学園の近況を詳細に野田先生独特の小さな文字で書かれたハガキを送って下さいました。学園には日に3回位電話連絡を入れて報告は受けていましたが、野田先生からの写真のハガキには感激しておりました。私の宝物として大切にしたいと思います。7月の盆踊りにお越し下さいました折、先生の体調のこともちょっと気になりましたが、それが先生にお目に掛かった最後のお姿となってしまいました。
 先生長い間本当にありがとうございました。どうか、安らかにお休み下さい。

                                                                                                       次のページへ