教育再生会議の第一次報告で、学力低下の原因とされた「ゆとり教育」の見直しや授業時間数を10%増やすことなどが提案されました。確かに今の教育現場にはさまざまな問題が山積し、信じられないようなことも起こっています。今、教育問題を考えることは絶対に必要なことであることは確かですが、対処療法的なことではなかなか問題は解決しないのではないかと私は思っています。
1990年代のゆとり教育が考えられた背景には、詰め込み教育や偏差値教育によって、授業がわからないとか俺たちはできない人間だという意識が子どもたちに生まれ、それが校内暴力や家庭内暴力に発展したという反省がありました。そして、みんながわかる授業をしていこう、過度な競争をさせず比べないようにしようと考えたわけです。さらに2002年の学習指導要領改訂。この時に学校完全五日制の実施、教科時間と学習内容の削減、総合的な学習の時間が創設されました。ゆとり教育からさらに具体化された学習内容の3割削減は、台形の面積の公式が消えるなどと親たちを一斉に不安にさせました。教育現場も総合的な学習の時間に何をしたらよいのかと混乱し、学校によってはその時間に受験のための学習を充て、未履修というたいへんな問題につながってしまいました。
今回、学習時間数を10%増やす案が出されましたが、私は「また同じことを繰り返すのか」と思いました。これが実行されて校内暴力が再燃したら、再び削減を考えるのでしょうか。3割削減と打ち出された時に武蔵野東小学校も中学校もそれはしませんでした。「残すべきものは残す、学習に必要なものだから」という精神でした。また、総合的な学習が公立校で行われる前に、武蔵野東小学校では情報教育と英語教育が強化され、中学校では「生命科」の授業が生まれ、その後、数学と英語のエキスパートクラスができました。同じ時期に高等専修学校では「体育科」が新設されています。総合的な学習の時間がなぜ生まれたのかと言えば、子どもたちに生きる力を身につけさせようと考えたからです。この理念には強く賛同できますが、これが根づきにくかったのは、もっとやるべきことが現場にはあったからで、教師そのもののゆとりがなかったことも考えられます。
OECDの学力調査結果によって日本の子どもたちの学力低下が叫ばれましたが、はたして本当に学力が低下しているのかと言えば、そうは言い切れないデータもあり、計算力や知識量は依然トップクラスです。問題なのは日本の子どもたちの「読解力」と学習に対する「意欲・関心」という点です。学習はまあまあできるけれど楽しくないという数値が圧倒的に多いということです。今後は内容がやさしくてわかる授業ではなく、楽しいと思える授業を求めていくべきでしょう。子どもには向上心と知的好奇心があります。だから武蔵野東の教育の底流にある「繰り返しの学習」によって知識と技能の基礎を確立させ、次に明確な「目標」を定めて子どもの「意欲」がわくような面倒見のよい指導が必要なのだと思います。学習のみならず四季折々の体験や行事を通じて、目に見えにくい学力である思考力、判断力、表現力、忍耐力、あるいは企画力や調査力を子どもたちに身につけさせていく指導に力点を置くべきです。さらに言えば、本学園の混合教育のように双方が「与え、与えられる」ことを実感し、そこから成就感を得、相手の心を読み解くという「真の読解力」を学びながら、人間としての「心のゆとり」を知らせることが必要だと思います。
それとともに、ゆとり教育を本当に実現させるのであれば、親があくせく働かなければ経済的に苦しいという現実をなんとかしなければならないとも感じます。大人にこそゆとりを与えなければギスギスした人間関係から解放されません。ゆっくりまわりを見渡せる大人が、大人として考えられる環境がないと子どもは育たないと思うからです。
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